「世界で一番きれいなのは?」
「わたし~」
二番の名前は、日々変わったけれど、一番は必ず「わたし」
「わたしってきれいでしょ?」が口癖の、明るく、ガッツがあって、言いたいことをはっきり言う、田舎のしがらみとは無縁の大伯母でした。
あの時代、女性で大学まで出て、パリに絵の勉強に行って、やりたいことはやるという性格。
享年89歳。大往生だったと思います。
大伯母は、兄弟の中で一人故郷を離れ、横浜で暮らしていたため、藤沢に住む私とはたまにランチをしたり、お茶をしたりする関係。
私が出産した時は、年賀状片手に知らない人に道を聞きながら、うちまで来てくれました。
「ゆみちゃん、あんた、子供には〇〇しやなあかんで!!」と一方的に意見を押し付けられ、「子育てしたことないくせに…」と苦手に思ったこともありました。
そんな大伯母が認知症を患っていると知ったのは、数年前。
私が家を訪ねても、何度も同じ話をするようになり、歩くのが遅くなり、横になっていることも多くなりました。
大伯母を毎日一生懸命に支えてくれたのは大伯父です。「俺が最期まで見る」といって、それこそ下の世話まで。大伯父は言わないけど、しんどいときも、いらいらすることもあったと思います。それでも頑張って頑張って、、、
いまからちょうど一年前に限界が来ました。
ついに体調が悪くなった大伯母が入院することになりました。
直接の原因となった病気はすぐ治ったのですが、そのことで食事を一切取らなくなってしまったことが大きな問題でした。
病院では、ゼリーのようなものを食べたり食べなかったり。大伯父と一緒に先生から延命治療の説明も受けました。
最愛の妻が命の危機にあるということを受け止めきれない大伯父には、酷な時間だったと思います。去年のちょうど今頃には、最期の時間をどこで過ごすかという決断を下すことに、大伯父と私、右往左往でした。
大伯父の希望は、とにかく大伯母のそばにいたいということ。当時コロナの感染者数は落ち着いていたものの、病院や多くの介護施設では面会制限がありました。大伯父宅の近く、横浜でもいろいろさがしましたが、大伯父大伯母がずっと一緒にいられて、かつ、また食事をとれる可能性を探れる場所は、私の知る限り、藤沢のぐるんとびーしかありませんでした。
いろいろ悩んで、いろいろ揺れて、とんでもないわがままをたくさん言って、ぐるんとびーにお世話になってから、大伯母は奇跡の復活をしました。
工夫して作ってくださったフレンチトーストをたいらげ、冗談を言って笑い、歌を歌い、子供を可愛がり、大伯父が来てくれるのを楽しみに、毎日を過ごしました。
ステーキを食べたり、ビールを楽しんだりすることもありました。
そんな大伯母の笑顔を見るのはとても嬉しかった。
もちろん、日々はそんなキラキラした部分だけではなく、遠い距離を通わなければならない大伯父の苦労、そこからくる不安と私への不信。私自身、もう関わるのをやめようかと思ったこともたくさんありました。大伯父も私も悩むことも多かったけれど、そこにも寄り添ってくれるのは、スタッフの皆さんでした。
それも、関わるすべての方が、スタッフとしてではなく、人と人として関わってくれたことがとても嬉しかったのです。
今月に入っていよいよ食事を取れなくなり、最期に向かう大伯母。数日前から大伯父は泊まり込ませていただきました。
「ありがとうな」「大好きだよ」「愛してるよ」と大伯父からの愛のシャワーを浴びながら、自分の力を見事に使い切って、大伯母は逝きました。
亡くなったときいて、これから何をしなきゃいけない?!と気を張っていた私が、ほっと安心して涙が出たのは、これまで支えてくださったぐるんとびーの皆さんの顔を見た時でした。
大伯父にお別れの覚悟をする時間と皆さんとの関わりを与えてくれ、私には仕事をしながら生きてきた女の底力を見せてくれ、周りの皆から愛された大伯母は、偉大な人だったのかもしれません。でもやっぱりおもいだされるのは、若い頃のちょっと意地悪な、ニヤリとした笑顔。
私にとっても忘れられない日々でした。
おばちゃん、本当にありがとう。
いままで、お疲れ様でした。
+・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・+
にしざわゆみ司法書士事務所
司法書士 西沢優美
☎ 0466-29-1155
✉ 2438@nishizawayumi-shiho.com
+・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・+